近世の諸藩(東海地方)
愛知県
三河田原藩(1)
城下町概説
田原藩は、三河国田原(現愛知県東部・渥美半島)にあった譜代大名の藩で、田原城に藩庁を置いた。
慶長6年(1601)、かつて田原を治めていた戸田宗光の傍系一族に当たる戸田尊次が1万石で入ったことにより、田原藩が立藩した。
寛文4年(1664)、戸田氏に代わって、三河挙母藩より三宅康勝が1万2000石で入封した。
三宅家は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名門であった。
三宅氏は当地を治めて12代続いて明治を迎えている。
田原城は、蔵王山南山麓に位置する海に面した標高16mの小山状の丘に築かれており、海や水堀に囲まれた梯郭式平城の城郭は、築城当時は東側から北周りに西側にかけて海に面し、巴型に水堀を張り巡らせて主郭を守った形状から、別名を巴江城と呼ばれた。

「広報たわら No557」
江戸時代になると田原城の南側に城下町が形成された。
17世紀後半頃に田原城の東側の大きな入り江は大規模な干拓が行われ、海に面していた田原城本丸は陸地にむき出しとなり、現在に至っている。
また、一部の武家屋敷や藩校などを囲むように外郭も形成されていた。
明治初年に撮影された古写真によると、主郭の壁は海鼠壁となっており、二ノ丸の櫓は層塔式二階建てのものとなっている(現在再建されたものとは形状が異なる)。

三州田原城図 国立国会図書館デジタルコレクション 日本古城絵図・東海道之部(2)
城下は田原村内に造られ、そのうち城下の部分は,大手・中小路・五軒丁・椿・山口・池の原・十七谷と北番場の一部が武家屋敷地で、現在の登り・横町・本町・南番場・清谷・新町・稗田・萱町・中町・亀井戸が町家だった。
城下町は伝馬役と郷村触流し役を勤めるため,諸役の大部分は免除され,本町・萱町・新町の中心街は無税地であった。
萱町の東端と新町の西端には木戸があり,それぞれ番屋が付属。木戸から城下に入ると,城門までの道が何回も曲折していた。
本町には領内24か村の連絡所にあたる会所があり,伝馬役も兼ねた。
城下の南端にある寺下通りの北側には、東から城宝寺・慶雲寺・龍泉寺・龍門寺と4つの寺が連なっている。
この区域は当時の田原の町の南すみの台地のへりにあたることから、防備を固めるために寺を集めたといわれている。
田原城を再整備した江戸時代はじめごろ、当時の領主(戸田氏・三宅氏)からすると、過去の合戦の経験を踏まえて、この場所を守っておく必要があると認識されていたようで、台地のへりに合わせて寺が建てられたため、通りは曲がりくねった形をしている。

田原市教育委員会「田原の文化財ガイド 渥美半島の城館」
参考にした資料
1.角川日本地名大事典
1.ウィキペディア(Wikipedia)
1.田原町史
慶長6年(1601)、かつて田原を治めていた戸田宗光の傍系一族に当たる戸田尊次が1万石で入ったことにより、田原藩が立藩した。
寛文4年(1664)、戸田氏に代わって、三河挙母藩より三宅康勝が1万2000石で入封した。
三宅家は小大名ながら城持大名であることを許されるほどの名門であった。
三宅氏は当地を治めて12代続いて明治を迎えている。
田原城は、蔵王山南山麓に位置する海に面した標高16mの小山状の丘に築かれており、海や水堀に囲まれた梯郭式平城の城郭は、築城当時は東側から北周りに西側にかけて海に面し、巴型に水堀を張り巡らせて主郭を守った形状から、別名を巴江城と呼ばれた。
「広報たわら No557」
江戸時代になると田原城の南側に城下町が形成された。
17世紀後半頃に田原城の東側の大きな入り江は大規模な干拓が行われ、海に面していた田原城本丸は陸地にむき出しとなり、現在に至っている。
また、一部の武家屋敷や藩校などを囲むように外郭も形成されていた。
明治初年に撮影された古写真によると、主郭の壁は海鼠壁となっており、二ノ丸の櫓は層塔式二階建てのものとなっている(現在再建されたものとは形状が異なる)。
三州田原城図 国立国会図書館デジタルコレクション 日本古城絵図・東海道之部(2)
城下は田原村内に造られ、そのうち城下の部分は,大手・中小路・五軒丁・椿・山口・池の原・十七谷と北番場の一部が武家屋敷地で、現在の登り・横町・本町・南番場・清谷・新町・稗田・萱町・中町・亀井戸が町家だった。
城下町は伝馬役と郷村触流し役を勤めるため,諸役の大部分は免除され,本町・萱町・新町の中心街は無税地であった。
萱町の東端と新町の西端には木戸があり,それぞれ番屋が付属。木戸から城下に入ると,城門までの道が何回も曲折していた。
本町には領内24か村の連絡所にあたる会所があり,伝馬役も兼ねた。
城下の南端にある寺下通りの北側には、東から城宝寺・慶雲寺・龍泉寺・龍門寺と4つの寺が連なっている。
この区域は当時の田原の町の南すみの台地のへりにあたることから、防備を固めるために寺を集めたといわれている。
田原城を再整備した江戸時代はじめごろ、当時の領主(戸田氏・三宅氏)からすると、過去の合戦の経験を踏まえて、この場所を守っておく必要があると認識されていたようで、台地のへりに合わせて寺が建てられたため、通りは曲がりくねった形をしている。
田原市教育委員会「田原の文化財ガイド 渥美半島の城館」
参考にした資料
1.角川日本地名大事典
1.ウィキペディア(Wikipedia)
1.田原町史
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