近世の諸藩(東海地方)

愛知県
尾張藩(2) 

千本松原と土器野の刑場

尾張藩の初期の頃の処刑場は、キリシタン弾圧時期と重なり刑場跡の情報が輻輳するが、一般の死罪人の処刑を行っていた千本松原であることは書誌で確認できる。
  マップ

自動的に生成された説明
          栄国寺位置図
『名古屋市史 政治編』(大正4年)には“刑場はもと千本松原の地にありしが、寛文二年、市井を開きて橘町とするに及び、春日井郡土器野に移す”とあり、『新川町誌』には、“土器野の刑場は、現在は愛知県西春日井郡新川町大字上河原蔦ノ葉地内にある。時は今から約三百年前の寛文三年、尾張藩(藩主光友)に於ては、次第に名古屋市の発展に伴い、城南千本松原(名古屋市中区橘町、東橘町一帯の地)に在った刑場をこの土器野の里に移した”と土器野の正式な所地名を掲げている。
又『西春日井郡誌』に記載された土器野の所地名は『新川町誌』と同様である。
 
千本松原の刑場跡地の利用に関して『名古屋市史 社寺編』「栄国寺の項」には“此地もと千本松原と稱する刑場にして、曾て切支丹宗徒貮百餘人を誅せし所なり、築城の後、藩主光友刑場を土器野に移し、其跡に一宇を建立し”云々とある。
尾張藩は大量処刑したキリシタンの菩提を弔うため、現地に栄国寺(元は清涼庵)を建立した。
栄国寺は名古屋市中区橘1丁目にいまも堂宇を構えている。 
 
キリシタン処刑場に使われた千本松処刑場は廃止され、寛文5年(1665)に至って(西)春日井郡土器野新田、正式には同郡小田井村へと移転した。
土器野処刑場に関しては、尾張藩士桑山好之が天保・弘化年間(1840年前後)に書いた伝記『金鱗九十九之塵』に次のように記載されている。
“土器野  此地はるけきいにしえに、かわらけの里とて、いと有情の所なれど、今はた刑場と成りて物凄し。又文化の頃、清七といふ者極悪にして火刑行るとき、「清七が盗めためたる罪業を今朝の嵐にたんだひとくべ」と口すさみて刑に行れし”

処刑場跡は北中野公園(清須市土器野北中野)付近の清須市上河原にあったと言われており、直ぐ近くに名鉄新川橋駅がある。
  


             







 
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